ご挨拶

藤澤先生の最初の原稿

新井会長から懇親会の席上で一言の挨拶をと要請されました。私は1960年、昭和35年医学部卒業の者です。その頃はまだ、インターン制度というものがあり、一年間を築地の聖ルカ病院で過ごしました。そして翌1961年東大病院で精神科の修練を始めた者です。その年は精神科入局希望者が特別に多くて東大卒同期から十六名、よその大学医学部卒の人から五名、合計二十一名、というこの数は空前絶後の精神科入局者であったと思います。その頃の教室主宰者は秋元波留夫でありましたが、秋元先生は全員の入局を受け入れてくださった。

入局して一年経ったところで、この新入局員は全員教授室に集められて、それぞれが希望する研究室への配属が決まりました。精神科医局の研究室としては、当時は神経病理学、神経生理学、神経生化学、心理学、などがあったと思います。二十一名の新入局者の中で私は何番目に秋元教授から、希望の研究室を問われたかを記憶していませんが、「藤澤君は、どこの研究室だ」と秋元教授に訊ねられて、私は「神経病理学研究室です」と答えました。秋元教授はちょっとびっくりされたようで、一瞬絶句して、「そうか、藤澤君は神経病理学か・」と申されたのです。教授は一呼吸おいて、「そうか、昔は神経病理学しか無かったからなー」と独り嘆息するように呟かれた。私は教授がどうして神経病理学という私の研究希望を意外に思われたのかはわかりませんでした。秋元教授の専攻された研究分野は神経生理学でありましたが、その分野の研究に私がすすむことを期待しておられたのかとは、今の言葉で言う風には「忖度」はしませんでした。

ところで、精神科病棟の建物の隣には脳研究所という建物が別にあり、そこには神経病理部という部門があり、白木博次先生が教授としておられました。秋元教授は私どもが精神科に入局して数年で定年退官をされましたので、教授は「藤澤君、君の学位論文は白木君に指導して貰いたまえ」と言い残して東大を去られました。よってここで、私の白木博次先生との姉弟関係が始まったわけです。

その間に、白木先生が東京都の美濃部知事の参与となられ、東京都府中市に東京都神経科学総合研究所を開設することにも働かれましたので、私は東大の脳研究所病理部からこの府中の研究所に移りました。この段階で、私は精神科医であることを完全に中断して神経病理学専攻の一研究者となりました。私が34歳の春のことです。今回の神経病理学会の会長をされた新井信隆先生もこの研究所の神経病理学研究室に私たちの同僚としえ後から加わってくださったわけであります。

東大脳研究所で始めていましたラットでの加齢に関係したneuroaxonal dystrophyの実験病理学的研究をこの新設の研究所で継続しました。ラットを出生直後から飼い始め、二年余に亘るその全生涯にわたってその延髄後索核で進行する加齢依存性の病変形成の過程を幾世代にも反復して観察しました。延髄後索核でのspheroids、つまりaxonal dystrophy形成の過程を光顕的、電顕的に研究しました。いくつかの研究報告を国際誌に発表できたのは、良い研究設備、有能忠実な技術員たちに恵まれた研究室で、雑用に煩わされずに研究に集中できたお蔭でもありました。1996年、研究所を63歳で定年退職しました。

定年後は精神科の臨床に何とか戻りたいと考えていました時に、私の同級生の一人が聖マリアンナ医大内科に教授でおりまして、その機縁でその教室関連の医療法人の一つが新しく認知症疾患に特化した精神科病院を創設するのを機会に、初代の院長として招かれました。横浜ほうゆう病院と謂います。2001年4月のことでありました。その医療法人は、聖マリアンナ医大とは従来から関係がありましたが、私はこの新設病院精神科医の募集のためには年来の同学同友でありました当時横浜市立大学医学部精神科の教授だった小阪憲司先生を頼りにしました。そして、私いかさか早い時期にこの小阪憲司先生にこの病院の院長を交代してもらいましたが、私は院長として初代でありましたから、以後名誉院長としてこの病院に出入りして現在に至っております。私はこの病院で現在までの十七年間に、およそ三百人以上の入院患者を受け持ちました。そして、私は所謂アルツハイマー病の患者が、発病年齢、初発症状、全体的病像形成の進み方やその継時的進行の経過などを、CTやMRIなどによる脳画像所見とその経時的進行の経過などを経験して、あらためて確信したことは所謂アルツハイマー病なるものは、単一の疾患単位ではあり得ないという結論でした。それでこれら自験例の中から56例を抽出して「アルツハイマー病は単一の疾患単位ではあり得ない、一つの大きな症候群であるに過ぎない」という報告を学会誌PSYCHOGERIATRICSに投稿し、幸い受理されて一昨年の暮れに印刷になりました。

これまでお話しtことが、この席で新井信隆会長からの依頼で皆さんにわたしが申し上げたかった事柄の一つです。私がこの席で皆さんにお話したいもう一つのことを手短にお話したいと思います。

それは、これからのアルツハイマー病の神経病理学的研究の進み方についてです。前世紀末から新しい世紀に入ってのこの二、三十年の期間に例えば日本神経病理学会機関誌NEUROPATHOLOGYに収録されてきたアルツハイマー病の症例報告はそれ以前に比べて著しく減って来ているように感じます。ここに来ておられる皆さんがたはどういう印象をもっておられるでしょうか。アルツハイマー病の研究は神経病理学を卒業して、生化学・分子生物学・遺伝学の分野に重心が移ったようです。これらの分野でアルツハイマー病について数々の新しい知見が報告されているのは重要なことですが、簡単に申しますとそれらの分野で得られた知見は実際の患者の脳に還元してその真実性、重要性が検証されなければならない内容のものです。

アルツハイマー病とは、老人斑と原繊維変化の出現することだけでは説明にならない病気です。それは一例一例の臨床が多種多様であり、経時的に追跡された画像所見が症例ごとに多種多様であり、それはつまりその病変を起こした神経病理学が多種多様であることを物語っています。形態学的研究以外の研究は重要ですが、それは病理形態学と突き合わせて検討されなければ、その重要性は確定しません。

このようなことはこの神経病理学会に集まられた方たちにとっては常識ではありますが、ではそれなのにこの世紀を代表するような疾病であるアルツハイマー病の神経病理学がこの二十一世紀になっても目覚ましい進歩を果たせないのはなぜでしょうか。アルツハイマー病の剖検率が伸びない、むしろ低下してきているのではないかと私は感じています。ではなぜ剖検率が低下したように思われるのか。神経病理学で調べられることは、もうすでにこの百年間に顕微鏡で調べられることは調べつくされているという気持ちが一つ、それと病理解剖は多大の時間と労力と人手とお金を必要とするからでしょう。アルツハイマー病の患者が病理解剖に回せられるのは、大学病院の患者であること少なく、一般の精神病院では剖検室の設備を持ちえません。標本を必要なだけ、広範に切り出すことも、あるいは半球・全球標本を作ることも、普通の病理検査室では重荷です。神経病理学会は、全国的にアルツハイマー病患者の剖検を受け入れられる基幹精神病院、大学病院をこれまで以上に積極的に整備し、組織化することが必要ではないか、と思います。今では国家的疾病となったアルツハイマー病の研究推進のためには、神経病理学会が果たすべき政治的役割は重いと私は思います。

最後にもう一つ、アルツハイマー病研究のための一つの提言を私はこの機会にしたいと思います。あるいは、既にその方向での方策は学会で既に議論されているかも知りませんが。それは、今回の学会会長を務められておられる東京都医学総合研究所や、東京都老人総合研究所、新潟大学脳研究所や、数え上げれば十指に余る歴史と実績のある脳研究所は多くのアルツハイマー病症例の標本を整備蓄積しておられると思います。それらの標本はすでに検索され、結論がだされ、報告されている症例でありましょうが、新しい眼で標本を見直すことができるように、蓄積・整備された標本を関心のある神経病理学会会員の求めに応じて貸出するサーヴィスが可能であれば、これはアルツハイマー病の神経病理学の進歩に多大の貢献がなされるであろうと私は期待するものです。

いずれにせよ、神経病理学は精神神経疾患研究のアルファにしてオメガである、ということを申し上げて私のご挨拶にします。ありがとうございました。