ご挨拶

第58回日本神経病理学会総会学術研究会 懇親会

ご来賓 藤澤浩四郎先生からのご挨拶(全文ママ)

懇親会の席ですから、一つの話題に限って会場の皆さんにお話を致します。アルツハイマー病の研究は、現在では多方面の分野に広がりました。その中で神経病理学がこれから果たして行くべき役割はどのようなものであるかを、毎日のように机上に読む新しい文献の中で私は考えるのです。それで、ここではアルツハイマー病研究史の中で忘れることのできない一つの歴史的な出来事を回顧して皆さんのお耳を暫時この問題に向けて頂きたいと思います。

アルツハイマー病の第一例がアルツハイマーにより最初に発表されたのは1906年であったとされています。患者はアウグステ・Dという女性でした。そして、それから四年後の1910年には、第二例を再び彼は報告しました。ヨハン・ファイグルという名の日雇い労働者だったそうです。この二例の病理組織標本がミュンヘンのマックス・プランク研究所の地下室で見つかりました。この偶然の再発見がどのような経緯によるかについては、ここでは省略致します。1992年と1997年とにそれぞれ一例づつ見つけ出された。このことは大きな出来事として、TIMEだったかNEWSWEEKだったかに直ぐに報道されました。日本でも新聞紙上に報道されました。皆さん方も記憶しておられるだろうと思います。

標本を探し出したのは当時このマックス・プランク研究所で仕事していたDr. Manuel Graeberでした。このDr. Graeberは、NIHのDr. Henry deF. Websterを通じて私の年来の友人でもありました。そして、このDr. Graeberがその後ロンドンに移り、2006年にアルツハイマー病発見百年を記念して集会をロンドンで開きました。旧友Graeberに会うためにロンドンへ行く機会に、途中ミュンヘンに私は立ち寄りこのマックス・プランク研究所を訪ねました。この時研究所の病理の責任者は、Dr.Kretschmerという人でしたが、Dr.Graeberからの紹介があり彼は初見の私の訪問を受け入れてくれました。

このDr.Kretschmerという人は、神経病理学の研究者ではなかったようです。挨拶代わりにこのDr.Kretschmerに、アルツハイマーの残したこの病理標本を見に来た人は私の前に何人いたかと尋ねました。お前が初めてだ、というのが彼の答えでした。この時には、標本の再発見が新聞紙上、週刊誌上で報道されて既に十年経っていました。「お前が初めてだ」という彼の乾いた返事に、私は言葉が出ませんでした。兎に角、その日私は彼が用意してくれた研究所二階の一室で二例の標本を朝九時から午後の三時まで鏡検しました。標本は多数用意されていましたが、いずれも小さく小指の先ほどのものでした。切り出された部位は特定できませんでしたが、海馬の標本は一枚もありませんでした。第二例には実に多数の原繊維変化、老人斑が見事に染め出されていましたが、第一例には老人斑は多量でしたが原繊維変化は見つからなかったように思いました。つまり、アルツハイマー病の第一例と第二例とは病理組織学的には同一疾患の症例ではあり得なかったのです。膝下のドイツ神経病理学会がアルツハイマーの残した貴重なこの二症例について、現在どのように評価しているのか、を問うてみたいと思います。

私はこの二症例を経験して、今日のこの機会に皆さんに申し上げたいことがあります。日本の神経病理学の研究者は、自分の経験した症例の検索と報告だけで自分の神経病理学を作り上げてはいけない、ということです。それでは、自分自身の経験を広げることも深めることもできない。現在の日本で、いやおそらくどこの国でも古典的神経病理学研究は、いろいろな不都合な事情から新しい症例の蓄積は先細りだろうと思います。我が国の主だった神経病理学研究施設は自らの研究室で剖検し、作成し鏡検した標本について症例報告をしたことで標本を十分に活用したと満足してはもったいないと私は思います。今の時代、作成した顕微鏡標本は、それを作成し鏡検した研究者の専有物ではあってはならない。それは広く同学の研究者に開放され、多分新しい見方ででも鏡検され、自由に活用されるように提供される配慮と努力がなされなければいけない。そうすることによって、研究者自身の学問が深められ、広げられるだけでなく、同学の人々の全体の学問的水準が高められるのだと私は思います。

神経病理学は、神経病、精神病研究のアルファにしてオメガである、と私は思っています。
神経病理学は人類の歴史が続く限り永遠です。

ありがとうございました。

2017. 6. 2

会場:如水会館(松風の間)

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